Yuval Yaron先生

 インディアナ大学では初めの2年間グッリ先生に師事したたあと、イスラエル人のユーヴァル・ヤロン先生のスタジオに移った。

 グッリ先生とヤロン先生は、何から何まで全く違っていた。グッリ先生はいつでも優しく、いつも褒めてくれ、指導内容は個人的な演奏の問題解決というよりは、一般的な曲の解釈など、講義を聴いているようなレッスンだった。

 それに対し、ヤロン先生は、とにかく気難しくて怖い。いつも褒められることに慣れているヨーロッパやアメリカ人の生徒たちの中には、自尊心を傷つけられて泣いてやめていった人も多く、結局スタジオには、厳しい先生にも黙々とついていく東洋人が多く残っていた。先生のコメントは、その人の演奏だけでなく、人間性の核心の部分にふれ、グサリと傷つくこともあったけれど、本当に親身に問題点を解決しようとしてくださり、ときには哲学的であった。

 

 ヤロン先生は、シェリングの勧めでイスラエルから渡米し、インディアナ大学でジョゼフ・ギンゴールドに、南カリフォルニア大学でヤッシャ・ハイフェッツに師事している。

 素晴らしい演奏家なのに、そこまで演奏活動をしていないのは、先生の難しい性格が災いしているようである。昔アイザック・スターンのマスタークラスを受けることになったものの、先生はスターンのことが嫌いだったため、ガムをくちゃくちゃ噛みながら30分遅れて現れ、怒ったスターンに「二度とニューヨークで演奏活動ができないようにしてやる」と言われたという逸話もあるほどだ。

 

 ユダヤ人であった先生は、ドイツ人にもかなり複雑な感情を持っていた。

 Artist Diplomaプログラムでは、毎学期一回リサイタルを開かなくてはいけない。一度その伴奏をドイツ人の友達に頼んだことがあるのだが、レッスンに彼女を連れていくときは、明らかに機嫌が悪いのだ。そしてリサイタル当日、会場に先生の姿が見えないと思ったら、夕方から鳴り始めた雷雨のため、「犬が怖がっているので、そばにいてやらないといけないからリサイタルには行けない」という留守電が家の電話に残されていた。

 

 先生に最後にお会いしたのは16年くらい前だが、最近の写真を拝見すると、ずいぶんと表情も柔らかくなり、好々爺となられたようである。

 50歳になったら教えるのを辞めて、しばらく1人で海辺の灯台の中に住みたい、とおっしゃっていたこともあったが、今でも、海辺に美しいキャンパスを持つカリフォルニア大学サンタバーバラ校で教えている。

 

 

 

 

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 先生のレッスン日の機嫌の良し悪しは、サイコロを振るように予測不可能だ。

レッスン室のドアをノックすると、機嫌がいいときは、

"Hi, Yoko!"

と言ってドアを開けてくれるが、悪い日はドアの間からムッとした表情の先生が現れ、あいさつをしても何の返事も返ってこない。

 

 週に一度、それぞれの先生のスタジオで、マスタークラスが開かれる。門下生一同が先生のスタジオに集まり、その週に指名を受けた生徒の演奏を聴くのである。この狭い部屋いっぱいに座った他の生徒たちの視線を全身に浴びながら演奏をするのは、まな板の鯉にも似た心境である。

「来週マスタークラスで弾くかい?」という言葉が先生から発せられるのではないかと、いつもレッスンの度にどきどきしていた。マスタークラスでうまくいき、褒められて和気あいあいと終わればいいのだが、演奏が先生の気に入らず、皆の前で怒られると、しーんとなったスタジオの中で絶望的な屈辱感を味わい、聴いているほうもいたたまれない気持ちになり、身体を固くしてうつむくことしかできない。ここで弾いたあとは、どんな舞台も怖くなかった。

 

 あるとき、地元出身の、音楽家というよりは農夫といった雰囲気の、素朴で、いつもニコニコ笑顔の新入生がマスタークラスで演奏した。先生が話している最中、何気なく彼が後ろのピアニストの方を向いたそのとき、先生は

「私の国では先生に背中を向けるような失礼なことは決してしない!」と突然キレて、その日のマスタークラスは終了となってしまった。突然何が起こったのか理解できず、戸惑った表情の、お人好しの青年が気の毒になった。

 上機嫌なときの先生は、レッスン中にもいろんな面白い話をしてくださった。例えば、バッハのシャコンヌを持っていったときに、先生は、「君はバッハがこの曲で何を表現しようとしたんだと思うのかい?」と尋ねた。「神様との対話でしょうか?」と答えると、先生は、

僕も実はハイフェッツに同じことを聞かれたんだよ。そしてやっぱり「バッハは、神様のための聖なる音楽を書いたんだと思う」と答えたんだ。そうしたらハイフェッツはこう言ったよ、

「でもバッハは20人の子供がいたんだよ」とね。

 バッハの無伴奏ソナタ&パルティータはヴァイオリニストのバイブルだと例えられることもあるが、先生は、シャコンヌを宗教的な崇高な音楽と捉えるのではなく、もっと自分の人生の喜びや悲しみを反映させていいんだと、伝えたかったのだ。

 

 バッハの無伴奏ソナタでは、他にも興味深いお話をしてくださった。例えば、ソナタ3番の1楽章Adagioを弾いたときのこと。ハ長調で始まり、少しずつ調を変え、カラーを変えながらも、ゆっくりと不変の速さで進み、最後にはまたハ長調に戻るこの曲は、先生にとっては宇宙のイメージなのだそう。

地球の周りを月が回り、その地球が他の惑星と一緒に太陽の周りを回って、やがて一周して戻って来る。何てロマンティックなイメージなんだろうと思った。

 音楽家になっていなかったら天文学者になりたかったとおっしゃっていた先生は、やはりピタゴラスのように、宇宙の奏でる音楽を聴いていたのかも知れない。(音楽と数学参照)