小国先生の思い出

 素晴らしい先生だった。小国英樹先生と出会っていなかったら今の私は存在していなかったと思う。振り返ってみると、それほどに私の人生を変えてくださった先生だった。51歳という若さで胃がんで亡くなられてしまったのが本当に残念である。まだご存命だったら、さらに多くの優秀なヴァイオリニストを育て上げていたことと思う。

 

 先生は桐朋学園からパリに留学され、グリュミオーのもとで研鑽を積まれたあと、シモン・ゴールドベルグ率いるオランダ室内管弦楽団でしばらく演奏活動、その後アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団のヴァイオリニストとして活躍された。私が習った時はまだ帰国されて間もないころだったのではないかと思う。

 先生はお話し好きで、 レッスンに行くといつも人懐っこい笑顔で、私たちが録音でしか聴いたことがないような往年の巨匠、オイストラフやシェリング、シゲティ等と共演したときのエピソードや、コンセルトヘボウでの出来事など、興味深い話を面白おかしく話してださった。

 

 私が小学校のころ師事していた女性の先生は、当時コンマスをしていてお忙しかったこともあり、レッスン時間は短く、基礎的な練習は全くなしで曲だけ、そしていつも疲れているご様子で、しょっちゅう怒鳴られてレッスンで泣かされることもしばしば。その後中学に入ってからはジュリアード音楽院から戻られたばかりの先生に、ガラミアン奏法で一から叩き直されたのだが、高校に入った時点で基礎が完成しているというレベルからはほど遠く、一方桐朋で師事した江藤先生は偉すぎて、基礎的なところを手取り足取り教えてくださるタイプの先生ではない。それで悩んでいたところを、母の同級生である久保陽子先生に、基礎をきちんと教えてくれる素晴らし先生がいるから、と紹介されたのが小国先生だった。もちろん江藤先生には内緒である。

 あとから分かったのだが、小国先生が一から育て上げた、日本だけでなく海外の音楽界でも現在活躍しているお弟子さんの他にも、当時江藤先生につきながら、同じような悩みを抱えてこっそり小国先生に通っている生徒はかなり多かったようだ。今だから、実は私も、と打ち明けられるのだ。江藤先生もきっと薄々は気づいていたに違いない。

 

 小国先生の教え方の素晴らしいところは、「もっときれいな音で!」「もっと歯切れよく!」ではなく、どうやったらそうなるのか、そのメカニズムをきちんと論理的に説明してくださることだ。しかも、その分析力、観察力たるや驚くほどで、技術的なことで何か苦労していると、まるでこちらの気持ちを見透かしたかのように、「そこは1の指に力が入っているね」とか、「あと2㎝弓の元寄りで」などと言われて、やってみると突然魔法のように弾けるようになった。本当にレッスンが楽しいと感じた。

 久しぶりに当時書き綴っていたレッスンノートを読み返してみたら、当時先生のおっしゃっていたこととそっくりのことを、今自分の生徒さんたちに言っていることが分かった。何か技術的な問題に当たったときに、なぜそうなるのか冷静に分析して解決する力をつけて頂いたのは、一生の財産だと思っている。

 

 先生に教えて頂いたのは、技術的なことだけではない。先生はバッハやモーツァルトの様式感にも非常に厳しかった。今でこそ大半の演奏家が留学して欧米で勉強する時代になったが、当時先生の世代で欧米、特にヨーロッパに長く住んで勉強した音楽家はそれほど多くはないので、ともすれば日本人にとっては分かりづらい様式感について、一音一音丁寧に教えて頂いたのは貴重な体験だと思っている。先生自身、20代で師グリュミオーの門戸を叩いたときには、モーツァルトは君には10年早いよ、と言われたそうである。

 

 私がインディアナ大学に留学した年、初めての学内リサイタルを行い、そのテープを先生にお送りしようと思っていた矢先、先生の訃報が届いた。いろいろと報告したいことがあったのに、果たせぬまま突然宙ぶらりんの状態になってしまったようで、虚無感を感じた。演奏活動を始めてからも、悩みにぶつかるたびに、何度先生にお会いしたいと思ったことだろう。先生だったらきっと、ニコニコ笑いながら不思議な魔法で私の悩みを吹き飛ばしてくださったに違いない。自分もいろいろな経験を重ねたからこそ、先生とお話ししたいこともたくさんあった。

 先生のレッスンは当時はカセットテープで毎週録音して復習していたのだが、あるとき何気なく昔FMから録音したピアノ曲を聴いていたら、それが終わったあと、突然小国先生の高らかな笑い声が聞こえてきた。レッスンテープの上にピアノ曲を録音していたらしい。先生が楽しそうに笑いながら話をしている声を聞くと、まるでそこに先生がいるかのような不思議な気持ちになった。

 

 留学する前は、先生が通えなくなった大阪の教室のポジションを引き継がせていただき、先生が亡くなったあとも奥様が、二年間の留学から戻った私に先生のお弟子さんたちを任せてくださったのに、そのあともう一度アメリカに戻ることを決め、全てお断りしてしまい、奥様には申し訳なく思っている。


 

 先生がお話ししてくださった興味深いエピソードの中から、いくつかご紹介しようと思う。

 

■グリュミオー

 

 グリュミオーの奥様は、もともとグリュミオーの先生で、20歳くらい年上だけれども、グリュミオーが亡くなったあともまだご健在で、先生と手紙のやり取りをされていたそう。

 グリュミオーは飛行機嫌いだったので、一度しか来日することはなかった。

 一般にグリュミオーは端正で艶のある繊細な演奏と考えられていることが多いけれど、実際にそばで聞くグリュミオーの音色は驚くほど大きかった。

 

■オイストラフ

 

 彼のような巨匠でも、ミスをすることがたまにはあるらしい。あるときリサイタルでバッハの無伴奏ソナタ第3番のフーガを演奏していて、暗譜ミスであるところまで来ると先に進めずに前に戻ってしまった。結局進む糸口がつかめないまま3回繰り返し、やっと最後まで弾き切ることができた。その間45分間、止まらずにひたすらフーガを弾き続けたのだからその体力、精神力たるや尋常でないけれど、その時のオイストラフの心境を考えると、冷静に演奏しながらも頭の中はパニック状態だったに違いない。楽屋に訪ねていくと珍しく不機嫌だったそうである。

 

■シェリング

 

 けっこうアルコールをたしなむ方らしい。緊張を和らげるためか、演奏の前にかなり飲んでいることもあり、舞台裏では千鳥足だったりするのだが、舞台に出ると、いつでも完璧に演奏する。しかも、グリュミオーは日によって演奏にムラがあったりするのだが、シェリングはいつでも全く同じように演奏をする人なのだそうだ。

 

■コンセルトヘボウオーケストラ

 

 コンセルトヘボウほどの一流オーケストラとなると、一流の指揮者やソリストと共演して、世界中を演奏旅行し、さぞかし華やかで楽しいだろうと想像するが、実際はかなりの精神力を必要とする世界らしい。一旦ツアーが始まると、毎日コンサート会場とホテルと空港の往復と、長時間の飛行機とバスでの移動で、ノイローゼになる人も多く、中には自殺してしまった人もいるとか。ヨーロッパ内ではバスでの移動も多く、バスの中で寝られるかが生き残りのカギになるそうだ。