江藤先生の思い出

江藤先生と奥様のアンジェラ先生
江藤先生と奥様のアンジェラ先生

 江藤俊哉先生は、私の学生時代の日本のヴァイオリン界では最も有名な先生の一人だった。

 当時、先生のお弟子さんは80人位とも言われ、飛行機で北海道や九州からレッスンに通う生徒さんもいた。レッスンはいつもきっちり45分で、全く遅れることなく、次から次へと生徒さんたちが出入りしていた。ネスカフェのCMに違いのわかる男として登場したり、NHKの「ヴァイオリンのおけいこ」や、音楽番組、クイズ番組などに出演されたりと、先生のスケジュールは多忙を極めていた。


 建築にも興味をお持ちだった先生は、小平市にある、先生ご自身が設計されたとても素敵な邸宅にお住まいで、40畳以上あると思われる広いレッスン室は、ピアノの向こうの大きな窓の外に、壁から小さな滝のように水が流れていて、部屋の中はいつも香水の香りで満たされていた。

 しかも私が通っている間に、またもや先生の設計でお宅は建て替えられ、全く趣向の異なる家が誕生した。


 現在日本だけでなく、世界で活躍する多くのヴァイオリニストをこの世に送りだした先生だが、あまりにも偉大過ぎたため、生徒たちはいつも先生と一定の距離を保ち、くだけて先生と交わることはあまりなかった。先生と雑談をしたり、先生から音楽以外のプライベートなお話を聞かせてもらった思い出はほとんどない。

 ヴィエニアフスキの協奏曲第二番の、「ロマンス」と名付けられた、第2楽章をレッスンに持っていったときのこと。

 ピアノもかなりお上手だった先生は、たいていの曲は伴奏を弾いてくださった。この2楽章は長い前奏から始まり、それを聴きながら私も少しずつ、音楽とともに気持ちが盛り上がっていった。前奏が終わって、さあ弾き始めようと大きく息を吸ったところ、

「サクッ」

と音がした。先生が、リンゴをかじった音だった。

 レッスンの合間に全く休憩がなかったため、先生はいつも、アンジェラ先生が持ってくる、フルーツやお菓子をレッスン中に食べておられた。このリンゴも、お皿に盛られて、ピアノの上に用意されていたのである。

 以来、私の中では、この曲はリンゴの「サクッ」という音と永遠にリンクづけられてしまった。

 今でもこの曲を聴くと、レッスンをしながらおやつを食べていた、江藤先生のお茶目な一面を思い出してしまうのだ。

 ロシア人ヴァイオリニスト、エフレム・ジンバリストの高弟でもあった先生は、楽器から溢れ出るようなリッチな音色の持ち主であった。(7年間先生に師事したが、レッスン中に演奏をしてくれたことは一度もなく、その音色はコンサートとレコーディングでしか聞けなかったのが残念だが。)

 7年間に先生に言われたことで最も記憶に残っているのは、「もっとねっとり!」というお言葉だ。

いつも言われていたため、私の弾き方がよほど淡泊だったのかと思ったが、あるとき先生の指遣いを写させてもらうために友達から楽譜を借りたら、そこにもやはり「ねっとり」と書き込まれていた。

 どうやら「ねっとり」こそが先生のこだわりであり、先生の豊かな演奏を特徴づけたボーイングのキーワードだったようだ。

 多くのヴァイオリニストが、キャリアを積んで円熟の域に入ると、指揮を始める。

 イツァーク・パールマンや、ズーカーマン、ヴェンゲーロフなども皆、近年指揮活動をしている。

 江藤先生もまた、私が大学に在学していた頃に指揮棒を手に取られた。主に江藤門下生により編成された弦楽オーケストラ「江藤オケ」では、先生の指揮で、サントリーホールで演奏会をする機会にまで恵まれた。


 右の写真は、そのときサントリーホールの前で写した写真である。

 現在国内外で活躍している人ばかりで、つくづくすごいメンバーと一緒に演奏していたのだなと思う。